昭和50年11月10日月例祭
                  入力者 大坪謙一

三代金光様のお言葉の中に、えー「一心の真」というのがございます。えー、一心されたならば真で現さなければならんということだと思うんです。んー、信心にはここが一番大事だと思うです。最近、えー御道の良いもの見ますと、えー難儀に背を向けなということ、あぁよくでております。難儀に背を向けてはならい。その難儀に真正面から取り組まねばならんというのでございます。私は思うのですけれども、んー、ご神徳に背を向けなと頂きたい。えー、事柄は同じでありましても、大変に違ってくるのです。

御神徳を神様が下さろうとする働き。人間はもうあの世この世を通して御神徳なくしては、御神徳を頂かずしては真の魂の助かりもなからなければ、ね、人間の幸せの条件も足ろうてはまいりません。人間の幸せの条件が足ろうてくる。いわいる、貧争病のない。ね、健康で物に金に不自由なくって、そして心がいつも平穏であり、平和である。だから家庭もまた平和である。しかもつきることのない限りのないおかげに恵まれ続けてそのおかげがそのままあの世までも持っていかられる。しかもそれがこの世にも残しておけるというほどしのものが御神徳なのです。

教祖金光大神様は、どうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰せられてあるのは、どうぞ信心して御神徳を受けておかげを受けてくれよということなのですから、その神様の願いに答えてたたせてもらう信心が必要だということになります。ね、せっかく御神縁を頂いてそういうありがたい道を教えて頂くのですから、その道を行じせずして、頂かずしては勿体無い限りでございます。ね、そこで、えー御神徳に背を向けるなということは、やはり、今申します。難儀に背を向けては御神徳は受けられません。今日ちょうど四時半の、四時の御祈念が終わって四時半にここへ下がらせて頂きましたら、まぁあれが普通でいうならば、えーどうでしょうかね、んー、それこそ息せききってというとこじゃないでしょうか。もう駆け込んで来るようにしてお参りをしてきた方があります。日田の方です。

その方の妹さんが丁度、おー三年前の今日ここにお月例祭におかげを頂いて、それから今晩親子三人で参って見えて、ここの控えで、もうそれこそ涙ながらに助けを求められました。というのはその今日参って来た方の妹さんが、何とかガンで死刑の宣告を受けたも同様の状態でありました。それがちょうど今日で三年になりるというのです。信心、それから何回かお礼参りがありましたくらい。日田のお姉さんはちょいちょいお参りをして見えられます。ちょうど日田のずーっと山奥のもうどれだけ見渡しても自分の山だというような大変な資産家のお方らしいです。それが、ね、まぁ病院で無事退院させて頂いたが三年間やっぱりまた再発をしやせんかというような不安で今日まですごさせて頂いたけれども、今日でちょうど三年になる。

ところがその何の病気の気もないようなことが分からせて頂いて、今日はお姉さんがたまたま里の御用いかれたら、今日は確かに三年前の今日がそうであったから今日はお月例祭。御祭りに何か山の幸であるところの何か菜葉取りにでも行こうということになったんです。それから兄弟二人もそれこそ山ん中でなれた方ですから、もう菜葉の大体どこにあるぐらいなことは分かっておられるのしょうけれども、今日ばっかりはどこをとにかく週日はあったけれども取れだしゃじゃった。そこで帰りがき「ならもう帰ろうか」というとる時にです。「せっかく思いたって今日は、菜葉のお供えさせてもらいたい」と思うて兄弟二人できたんだから、もう一遍一つ金光様にお願いをして、そのー探して見ろうや」というてそれから間もなく、あれは金と同じことで掘り当てたというだそうですね。菜葉は。

菜葉のやっぱこうできるところがあるわけです。それを、まぁ掘り当てた。その菜葉がなんと金竹であった。金竹というのは金の竹と書いてある。ね。やっぱ金光様の金の字がついとる」というてもう「もうとにかく姉さんあんたが車持っとるから車で早う一つお供えをしてくれ、ほら親先生がもう四時半にはさがられる、もうできるなら親先生がおられるうちに」というて、まぁ一生懸命で、えーまぁ歩いてなら息せききって、かてば自動車ですから、ね、息せきでなかったけれども、まぁちょうど私が下がろうとしておるところへもって見えました。

そのことと、お供えを私が、だから私がさっそく新撰室にいって、あのカゴがございましたから、あー今日は鯉の上にこう盛ってございましたでしょう。あれ私が今日は盛りました。もう本当に、あのー真心というか、まぁ一生懸命な思いがこめられておる。お供えのもってきどころが、もういっぱいでけていましたから。それで、あの川のものがあるから川のものの上にしたらどうだろうかと。皆さんもご承知のように川のもの特に、あの鯉のお知らせは、御神徳と教えられる。その、んー鯉の上に今日は山の物である、山の幸であるところの、えー菜葉を供えさせて頂いた訳でございます。

ね、今日私は皆さんに、どういうことをお話聞いて頂こうかと思いましたら、その鯉の上に菜葉がこう上がっとっところを頂いたんです。(笑)それで今日は皆さんに聞いて頂いておる、ね、お互いが信心させてもろうて、ね、難儀を厭うてはならん、難儀に背を向けてはならない。それをもう一つ突っ込んで頂くと御神徳に背を向けてはならないということを、いわば鯉の上にあるあの菜葉から聞いて、えー思うて、まぁそう感じさせてもらったからこの事を聞いて頂こうと思ったんです。ね、同時に今日は三代金光様のお言葉であるところの「一心の真」と仰せられる。

やはりね、願うからには一心にならなければいけません。同時にね、その真の限りを現さなければいけません。ね、私は今日その(?)さんの菜葉のお供えをお取次ぎさせて頂く時に頂いたのがね、●あのー、んー那須与一があそのはなんちいう所でしたかね、あのー扇の的というのがありましょう。那須与一がこう馬に乗ってね、それがあの、金ちゃんそばおがあげなテレビでるでしょうが(笑)あんな感じで馬に乗ってから、こう海の中に入って行くんです。ところがね、その不安な顔して「はぁーとても、もうあげん船は波間にこうこう揺らいでおるし、とても当たりゃするまい」っちいうごたる風でまた引き返してきておるところを頂いた。

それから、またお願いさせて頂いたらまた向こうの方へ向かった行くところを頂いたんです。ね、だから一心ということは、やはり貫かなければなりません。とても、もうこれだけは難しかろう。ね、この頃の神戸の可児市さんではないですけれども、もうどうにも、もう今度ばかりは仕方が無い、もう倒産するより他にはないと腹決めて、それからもう腹を据えて大祭ちょうど十五日の伏心会に見えておりましたから、大祭を拝んで、もう大祭を拝んですぐ帰ろうというから、お説教頂いて帰らなければというのでお説教頂いて帰らせて頂いた。そして、もう奥さんから何回も何回もその御祭展中に電話がかかってくる。

もう後三十分しかないというところで、もうそれっこそ不思議な不思議なお繰り合わせを頂いて、えー可児市さんは不安のままあちらへ帰らせてもろうたその後に万事のお繰り合わせを頂いたというそれこそ電話の向こうの方で声がでないほどに感動してお礼のお届けがあったんです。あれなんかは本当に前向きに進ませなかったら、ね、十五日の挽、あー頂いて、十六日の御大祭の朝、あれが帰る。「今日はとにかく私がおらにゃきゃどうにもできないから」という帰っておったらあんな風になってなかった。ただ一心に親先生あのお言葉を、まぁ信ずる信じないはともかくとして、まぁ先生が言われるからというておかげを頂かせてもろうてそれこそ見事なおかげを頂いた。

それこそ那須与一じゃないけれども、もうそれこそ敵も見方も、ね、それこそ船べりを叩いて褒め称えた。見方の者は馬のくらを叩いて褒め称えたという固辞がございます。そういう、例えば今日はあの場面を頂きましてね、もう本当にいくら弓の名人だというてもですね、もうそれこそ沖の方には浮いておる軍船に、ね、竿が立ってその上に扇がこう掲げてある。その扇を射ぬくというですから、しかも船が上下に横にこう揺れておるんです。それを射貫かせてもらおう、もしこれが失敗したら(  ?  )にもなることだと。

ね、死を覚悟してのそれこそ一心不乱(   )を念じて、えー扇の的を射落としたというのです。それこそ敵も見方も褒め称えるほどしのね、おかげを頂くということ、それはおかげを頂くそういう一つのもうとても「難しかろう」と思いながらね、願ったんじゃダメです。その一心です。しかもそこに真を現さなければいけません。ね、これも、あれは新田義貞という人は、ね、友軍にもう時間をきって追いつかなければならない。普通の道を行っとったんではとても間に合わない。そこで、(  ?  )でね、侍の魂といい、命とも思われるような小金作りの太刀を竜神に奉って、そして(笑い)海水がね引くことを願ったっち。(笑い)それこそ天地が自由になるようなおかげを頂いてその友軍に追いつくことがでけたという固辞があります。

ね、私は一心で頼んだっとうだけじゃいかんと思うです。一心を立てたからには真でそれをね貫かなければいけないと思うです。それを場合には、もう命よりも大事と例えば思うておるものでありましても、ね、天地が自由になるほどしのおかげ、天地が動いて下さるほどしのおかげを頂かなければならない時があるのです。ね、もうガンで助からないという人が助けてもろうた。もう倒産を待つより他にはないと腹決めなければ仕方が無いところまで追い込まれた時にです。ね、まぁそげな風ならば早う帰ってから家のことしなさい。そういうようなことじゃなくて、もういうならば「ままよ」という心を出した。

ね、だからそのままよという心を出すということは素晴らしいことなんですけれども、それをただままよというだけではいけんのです。もうどうとかなろうじゃいかんです。ね、先日から頂きます御理解の中に普通では、人知を尽くして、天命を待つという。ね、例えば試験なら試験を受けた。もうすることだけはした、そこであとは天命を待つより他にない。右左になっても仕方が無い。天命を待つより他にはない。その待つ間が不安でしょう。試験を受けた「さぁ右というてくるだろうか、左というてくるだろうか」とその間が不安です。これをだから信心のない人のいうことであって、ね、「天命を信じて人知を尽くせ」と私は頂いたです。

ね、天命。神様の願い、神様の働きというものを信じて、そしてやはり一心を持って、しかも貫かせてもらう。一心をもって人知を尽くさせて頂く。そこから生まれてくるものはです。試験を受けた、ね、その受けてその発表のあるまでが安心であり安らぎであります。天命を信じているのですから。それは右になるか、左になるか分からんのです。けれども人間の思いというものは右になるが本当か左になるが本当か分からん、実際は。そこで神様はおかげの方だけしか下さらんのだと確信がでけるということはです。ね、一心の真を尽くし現さなければ頂けない。ね、私は皆さんにせっかく信心をさせて頂くのでございますから、ね、おかげを頂くというてもです。やはり教えを行じ、ね、修行をおこたらずに、一心の真を貫かせてもらうという信心が大事だと思うのです。

ね、今日の(?)さんたちが今日で菜葉刈りに行かれた。三年前の今日、お取次ぎを頂いておかげを頂いた。今日は合楽ではお月並祭があっておるそれに、山の、おー、物、山の幸であるところの、菜葉のお供えでもさせて頂こう山にはそれこそ山ん中で生活しておられる、だからなれておるから、もう菜葉がどの辺大体あることは分かっておるけれども、今日に限って無かった。兄弟二人で周ったけれどもなかった。ね、だから、いわいるそれこそ那須のさっきの私の御神願じゃないけれども、その帰ろうとこう思うたわけですね、那須与一がもうとても難しかと思うてから、もうこれに当たるはずはないと思うてこう引き返してきよった。

けれどもそこで「もういっぺん姉さん探してみろうか」というて神様にお願いをさせて頂いて、しかも、もう「金光様の金の字の菜葉が取れたっちいうことはもう大変な感激であった。私は今日は(?)さんがああいう感激で参られたことは初めてだった。もう本当に人間のそういう真心をいうものをです。一生懸命の思いというものをです。神様が受けて下さる証拠に、神様がああいう表情、神様がああいう躍動する喜びにみした心というものは与えて下さるんだと。自分から己ずから生まれるのじゃない。神様の向かう心が真であり、一心であり、そこにです。私は神様から許された心の状態というものが開けてくると思います。ね、昨日、えー〇少の父兄でございました。

福岡の嘉朗さんの家内が発表しておりました。お父さんがもう「俺りゃ麻雀をやめる」いや麻雀じゃなかった、なんちいうたっちゃこつだっけ。ゴルフ、ゴルフ(笑い)あの人は本当にもうなんでも名人です。もう何をさせも、見事ですもんね。もう新撰をさせようが裁ち物をせてようがもうそれこそ、もうそれこそ、もうこの頃あの家の襖をやる時に小さいこものを張ってもろうたらね、もう襖屋さんが「はぁあんたもう襖屋よりか上手」っちいうてから褒めたげな。(笑い)というくらいにやっぱあの器用な方です。だから遊ぶこともなかなか器用に遊ぶわけですね。

ところがね、商売しとってからね、そういう例えば道楽どんするごたることであってはならないことは自分も知っとる、家内も(?)すかんわけです。それで「もう(?)、もう絶対これからせん」というといてから、(笑い)その、まぁ行ったことがバレタわけです。それからちょうど二人でお参りして、お参りをした。ね、その自動車の中それが分かった。はぁらもうそれこそ頭に「私はもう、あん時ばっかりは頭に血が上るっちいうのはあのことじゃろうっちいうくらいに、もう、かぁーもう、帰りがけには、もうほんなこてぎゃふんち言わにゃでけん」っちいう思うちからその、まぁお参りもする、一生懸命御祈念もするけれども、もう血がなかなか下へ下がらん。(笑い)

それから、まぁ自動車の中でもやっぱ言うち、今日は言わなんとばいなと思うてから、乗ったところが、ある方がです「すんませんばってん私も便乗させて下さい」っち乗り込んでこらしゃった人があった。こりゃもう本当にもうこの人の前でから何言うわけにはいかんもんじゃから、もう「生神金光大神さま、生神金光大神さま」でね、「もう私は本当にもう、ほんなこて、もう一生懸命で、その爆発寸前の自分の心の状態というものを金光大神におすがりしてから唱え続けた」っち。そしたらね、自分のところへ着く、もうちょっと手前ごろ、それこそ付き物が落ちたというのはこのことだろうかというようにです。自分の心の中に、その、そのいうなら登っとった血が下がってしもうた。(笑い)

そして、それとは反対にです。「もう信心ちゃ、もう何ちゅうありがたいことじゃろうか」というありがたみがいっぱいなってきた。そして、「お父さん、あのこれに行きなさいともう言おうと思うた」っち。それに、子供、横に乗っておる子供が気がついてです。「お母さん」(?)それから子供にいうたら、「私もいっしょにお願いをするからという、その子供が言うてくれた」っち。ね、「けれどもね、お母さんは今はそれとは反対に、お父さん遊びに行ってらっしゃいというごたる気持ちが生まれとると言った」という話しをしておりました。「まぁそれっきり主人が、あのゴルフにまぁ行かなくなりました」という発表しとりました。

ね、ですからこういうことなんかでもです。ね、そりゃおかげを受けるということなら、いうても、「家内がヒステリー起すけん、もう恨めしかけん行かん」っちいうちから、 もう、まぁ我慢して行かんかも分りませんよ。ね、これはおかげを頂くだけです。けれど家内の一心がです。ね、そうして、神様に心を打ち受けた時にです。ね、私は、そのー、西原さんという方が、こう「便乗させてくれ」とこう言った訳です。だから本当に西原さんが神様じゃったということなんです。だからね、こちらがそういう一心をたてると、そういう働きが始まる。必ず。辛でけんはずのが、辛抱がでけるようなお繰り合わせ頂いて、「はぁー辛抱して良かった」というものが生まれてくる。

そこにはです。もう思いもかけないおかげが展開してきておるのです。ね、これなんかは、私はおかげを受け、それこそ難儀に背を向けるというのではなくて、もう難儀に本気で取り組んだ。いうなら、そうではない、御神徳の受けられるという素晴らしいチャンスを頂いておるのをです。それこそ、頭に血が上ったついでに上せっしまうというようなことをするから、いつまでたってもおかげが同道周りであり、御神徳に触れるということができないことになってくるのです。ね、だから、ここが辛抱のしどころというところをです。生神金光大神におすがりして、一心をしかも真を現して、それこそ、新田義貞じゃないけれどもです。いよいよの時には自分の命のように大事にしておるものでも竜神に奉ってでもすがると願うというような姿勢をとらせて頂くということがとりもなおさず、徳に背中を向けないことであり、難儀に背を向けないことであると思うのです。

ね、(平穏無事?)なることを願います。今日も無事、そして繁盛、ね、そして、まぁ良いことずくめの願いをします。そりゃ願うのはあたり前です。人間ですから、けれども、ね、願っておってもそこにです。起きて来るの事柄というものはです。もうただならないこと。いうなら神様がおかげを下さろう。力を下さろうような、ご神徳を下さろうとする働きであるということを見逃してはなりません。ね、そしてその問題に本気で血が上るようなことでありましてもです。生神金光大神さま、一心におすがりしますとです。そういうおかげの頂ける手掛りが必ずでけるです。ね、今日二人で菜葉を取りに行って、なら二人が「そばってんなら今日はもう山を下りよう」と言いうて下りっとったらでけなかったけれども、ね、三年前の今日のことを思わせて頂いたら「姉さん、もういっぺん神様にお願いしてもらって見ろじゃんの」と行ったところへです。

もう、ありもの、それこそあの人どころでこれだけの物取りましたというカゴに持っておったいっぱいの菜葉を頂くことがでけたということ。ね、そこのところをやはりこうもう一押し貫かなければ、押さなければいけないということが分かります。ね、今日は「一心の真」ということをです。ね、ご神徳に背を向けなと。それには一心の真が内容でなからなければならない。なら、一心の真の内容とはということを今日は聞いて頂きましたですね。どうぞ・・・。